書評『ジキルとハイド』KURI
※ネタバレに注意です。
多重人格障害、解離性同一性障害などの“二重人格の代名詞”として知られる『ジキルとハイド』。タイトルは有名だけれど読んだ事のある人は少ないかも知れない小説の代表作でもある。かく言う私もその一人だったが、一読してあまりの面白さに驚いた。僅か150ページにも満たない物語から剥き出しの才能を感じた。
弁護士のアスタンは岩を削ったような人相のいかつい男だ。性格はどちらかと言うと陰気で、口数も少なく、感情を表に出さないタイプである。しかし、情に厚く、どこか人間的で、誰とでも平等に接する上に寛容な性格であったため、皆から慕われている。そんな男の友情は深く、親愛の情は蔓が伸びるように時間をかけて深まる。したがって幼なじみのジキル博士とは深い友情関係にある。
そんなアスタン弁護士の悩みの種は親友のジキル博士から預かっている遺言状だ。そこには「死後、財産の全てをエドワード・ハイドに贈る」と書かれていた。このハイドと言う男は一体誰なのか。アスタンはとらえどころのないぼんやりとした霧の中から、いきなり悪魔が姿を現したような、そんな感情を抱かずにはいられなかった。実際、ハイドの嫌な噂を聞いたり、彼に直接会う機会があり、ますますハイドに対しての不快感が深まった。ハイドはもしかしてジキル博士の想い人なのでは?財産目当ての関係なのでは?と疑いを持ち、何とかして親友の力になりたいと考える。最終的にアスタンは2通の手紙からジキルとハイドが同一人物であると判るのだが、果たして彼はジキルとして立ち振る舞って生涯を終えるのか、それともハイドとして終焉を迎えるのか。そこ本書の読みどころのひとつだろう。
『ジキルとハイド』は怪奇小説と言われている。しかしそれを越えた本能に訴える煽情的なテーマがある。ハイドが自由を求めれば求めるほどジキルは快楽への渇望に苦しめられる。そして「ジキルとハイド」を単純に「善人と悪人」として語ってはいけない。そこには品行方正な日常をおくりつつも快楽を求めるジキルの姿があり、善と悪をあわせ持つジキルと、悪のみの感情を持つハイドが存在する。読まなければわからなかった視点だ。そして、多かれ少なかれ、おのれの快楽に溺れるジキルの感情は、誰もが持ち合わせているのではなかろうか。
実際、このキャラクターにはモデルがいたそうだ。18世紀の高級家具師として職人組合の組合長を務め、エディンバラの市議会議員だったウィリアム・ブロディだ。彼は賭博資金欲しさに夜は強盗犯として別の顔を持って生活していた。逃走中に彼が書いた手紙が一つのきっかけとなり死刑判決を受け、公開絞首刑にされた。
【投稿者】KURI