書評『メナムの残照』
韓流ドラマの『愛の不時着』に負けず劣らずの大恋愛を描くタイの小説『メナムの残照』はタイ国内では何度もリメイクされて映画化されている人気の高い作品のようだ。異国の王子様は日本人の”小堀”という青年である。タイ人の知性と教養にあふれた美しい女性・アンスマリンを、命をかけて守り通す。
第二次世界大戦当時、首都バンコク西岸トンブリ側にあるバンコク・ノーイはメナム川周辺の静かな郊外の果樹園地帯だった。そこに祖母、母と3人で暮らすアンスマリン。彼女にはワナスと言う恋人がいる。彼はアンスマリンとの5年後の再開を約束して英国留学に旅立ってしまった。
戦争勃発後、進駐してきた日本軍はこの付近にあった華僑経営の小さな造船所を買収して南方戦場の沿岸や河川で使用する木造船を建造していた。その造船所長を務めるのが青年大尉の小堀だ。
この小堀とアンスマリンがメナム川で出会い、恋に落ちるのだが、アンスマリンの性格が気合いの入った強情さで、ツンデレぶりを全開させる。もっとも日本軍はタイにとっては侵略者であり、警戒すべき外国人集団なのだからアンスマリンが自分の気持ちに素直になれないのも当然なのかも知れない。そんな彼女に小堀は、ひたむきで一途な気持ちをこれでもかと言うくらい投げかけるから、読んでいて小堀の愛の言葉の数々に溺れてしまいそうになった。小堀がアンスマリンのことを“日出子”と呼び名を変えて呼んでいたことも印象深い。
しかし、この物語がメロドラマ一色にならないのは、時代背景設定が史実に従って忠実に描かれているからだと考える。国内の生活水準差の激しい現状や地下抗日運動や自由タイ活動などが、物語の中に巧みに組み込まれており、とてもリアルに感じた。また、著者が“タイ人の心”を登場人物に託して表現しているところに心を奪われる。タイ人は、誇り高く愛国心に満ちた人々であり、勇気と不屈の精神をもって信念を曲げない気質があるのではなかろうか。
私は個人的に文中の以下の一節が刺さった。人はどんな状況においてもお互いを尊重すべきであり、時代を越えて、国境を越えて、如何なる時も人としての尊厳を守るべきなのではなかろうか。
“世の中には善人も悪人もいない。人はその環境によって、善か悪か、どちらかの面だけを表面に出して振る舞っているにすぎないのに。”
ちなみにタイ原語のタイトルを直訳すれば、くぅーかむ(Khukham)『運命の相手』である。私は『メナムの残照』の方が好みだ。夕日が沈んだ後も、なお僅かな残光がメナム川に移り、美しく輝く。この光が、人間の儚い人生の最後の輝きにもたとえられて、絶妙に物語の深みが増すように思える。
本書はとても衝撃的なラストシーンを迎えるのだが、女流作家トムヤンティの才能に触れて大満足の読後感だった。
それにしても文中のアンスマリンの母・オーンの作るエビをふんだんに使った辛口なタイ料理は美味しそうだったな、と思い返す。機会があれば是非タイへ行って、現地のタイ料理を食べながらメナムの残照をこの目で見てみたいと思う。
【投稿者】KURI